僕たちが体験している世界は間違いなく仮想世界です。
と言われると「はぁ?ファンタジーの見過ぎか?」と思われるかもしれません😅
ですが、見て、聞いて、体験していることは全て「身体」を通して感じている「情報」です。
それらの体験は100%「身体を使った感覚器官からの情報」です。
つまり、僕たちは皆、全く異なる「身体」を通して世界を体験しているということ。
自分にとって左側でも、向かい合っている人からすればそれは右側になる。
上にいる人からすればそれは下になるし、下にいる人にとってはそれは上になる。
どれもが真実でどれもが真理です。
僕たちは身体という「デバイス」を通して、知覚したことが真実だと錯覚してしまいますが、状況、ポジションによって全てが変化してしまうのです。
もしこの世界が絶対的なものであればそんな現象が起こり得ないということ。
それ故に仮想世界だと言っているのです。
故にこの世界のことを仮想世界として捉えることに妥当性はあるけれど、絶対的な世界だと思っていると様々な弊害が出てくる。
相手がどの視点でこの世界を観測しているのかを考慮せず、自分の主観的な感想に溺れてしまうから。
僕たちの心は三層構造になっています。
僕たちが一番知覚することが多いのは「意識」別名「顕在意識」とも言います。
その下に「潜在意識」がある、、、、
と言いたいところですが、実は「顕在意識」と「潜在意識」の間には「もう一つ別の意識」が存在するのです。
それは「洗脳」です。
ここで言う洗脳の定義は「生まれてから死ぬまでの間に、外側から受けた強い影響」とします。いわゆる「刷り込まれた意識」です。
もちろん良い洗脳もあります。
例えばご飯を食べる前に「頂きます」「ご馳走様」と言うことは、それを作った人や食事に対する感謝の念などを自然に感じ取るための素晴らしい習慣です。これらは基本的にポジティブな影響を与えるものです。
生活する上で重要な共通した社会通念などもポジティブに働く場合が多い。
ですが、全ての刷り込みがポジティブに働くわけではありません。何となくそう感じる、という固定観念が自分の可能性を閉じてしまいネガティブな現象を引き起こす素になることも少なくないのです。
それを「内観」すること。
内観と反省は違います。
自分は何故そう思ったのか。
自分は何故それをしてしまうのか。
それをメタな視点で観察すること。
その大元はどこからきているのか、それを追跡していくのです。
不必要だと思ったものは手放す。
必要だと思ったのならば受け入れる。
無意識的に刷り込まれた意識。
それを「観察」して「不必要ならば手放す」必要だと感じたならば、それを再び選択すればいい。
そのプロセスこそが「自分軸」であるということ。自らを観察し、自分を構成する「精神エネルギー」の要素を意思によって選択する。
何故そう思ったのか。
何故その様な傾向があるのか。
誰かに言い当てて貰わないと自分で氣付けない。それは反応の視座であり、その時点で自分軸を他人に設定してしまっている。
刷り込みを「自分軸」だと錯覚している人がどれだけ多いことか。
それを自分で解くための追跡工程。それが内観なのです。
ちょっと厳しいかなぁ(^◇^;)
でも「内観」ってそういうこと。